激しい「宣伝合戦」が行なわれた「長久手の戦い」の戦後
史記から読む徳川家康㉜
なお、イエズス会の報告書によれば、「中入り」を企画したのは秀吉自身だったという。
秀吉が丹羽長秀(にわながひで)に送った書状によると、当日は「参州(三河)表に至り手遣いせしめ、発向調うべき儀の間、九鬼右馬允(くきうまのじょう)も船手にて彼の国へ差し遣わし候」と、水軍を率いる九鬼嘉隆(くきよしたか)を動員する計画があったことを明かしている。この書状からは、「中入り」が秀吉主導によるものだったとも受け取れる。
また、秀吉は進軍経路にある国人領主たちを買収している(「1584年フロイス書簡」)。
ところが、秀吉が買収した領主たちはすでに家康と連絡済みで、家康は領主たちに、秀吉に対し買収されたふりをするよう指示していたらしい。
地元住民の通報などで中入りに出撃した隊があることを知った家康は、同月8日夜半に密かに小牧山城から出陣。午前4時頃に羽柴秀次本隊に奇襲をかけ、撃退した(「皆川文書」)。
この戦闘で、森長可(もりながよし)が眉間に銃撃を受けて戦死。池田恒興は足に銃弾を受け、家康家臣の永井直勝(ながいなおかつ)に討ち取られることとなった。
報告を受けた秀吉軍が救援に駆けつけたが、すでに徳川軍は小牧山城に引き揚げた後だった。中入りで出撃した恒興らの兵は、1万ほどが討ち取られたという(『貝塚御座所日記』「尾張徳川文書」)。この戦いは「長久手の戦い」と呼ばれている。
同月10日、家康は北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子に書状で戦勝を報告。これを受け、氏政は「この度の戦功、前代未聞」と家康を賞する返信をしている。
家康はその後、丹波(現在の京都府中部と兵庫県北東部)、近江(現在の滋賀県)、山城(現在の京都府南部)、大和(現在の奈良県)といった秀吉の支配下にある諸将に調略を仕掛けている。家康は「近々秀吉を討ち留めるつもりだ」とする書状も送っており、秀吉に対する敵対姿勢を崩していなかった。
こうして家康が長久手の戦いの勝利を各方面に宣伝すると、それが伝わった京都ではかなりの騒動になったという(『兼見卿記』)。
小牧山を包囲していた秀吉だったが、同年5月1日、本陣としていた楽田から撤退。後日、秀吉も自軍の優勢を各地の大名らに宣伝している。
この後、戦況は再び膠着状態となったのだった。
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